亀井健三自筆年譜

亀井健三自筆年譜 わが生い立ちとちぎり絵人生


1967(昭和42)年 49歳  静かな寂しい服喪の正月。ふと思いたって中野先生にもらった和紙と手本の短冊を取り出し、自分で貼ってみる気になった。短冊に黒いバック、黄色い花と葉と莖の福寿草。これが思いのほかきれいにでき上り、もう1枚、もう1枚と作っているうち、たちまち素敵な作品が10枚もでき上った。これに味をしめ、正月の1週間制作に没頭、冬休みが終わったときは完全にトリコになっていた。
 思えば父の死と服喪がなければ私のちぎり絵は生まれなかったかもしれない。長く深いところで眠っていた私の美への憧憬がこのとき豁然と目覚めたのであろうか。このときから教職の余暇は、ロシア語文献の翻訳はわきにおき、ちぎり絵にのめりこむことになった。数ケ月の間に式紙作品を何十枚か仕上げた。どう伝わったのか、当時勤務校の松江北高校に島根新聞(現山陰中央新報)の記者が取材に見え、7月29日付け<はり絵>の名で初紹介され、続いて12月出雲市の武永印刷ギャラリーから展示のお誘いをうけた。年の暮も迫っての25日から27日まで、個展などとはおこがましい、「和紙ちぎってこんな絵ができます展」だった。それでも山陰地方でははじめての絵、充分に注目された。いまから見れば幼稚な絵だけれど、それなりに素朴で楽しいこれらの作品、どこかに保管しているつもりだが、いま見あたらぬ。

1967(昭和42)年
出雲武永ギャラリー、初の個展会場にて
(長女理愛子と)
1968(昭和43)年 50歳  この春、松江北高から安来高校に転勤。画材和紙がちぎり絵のいのちなのに、この和紙の有名産地が地元鳥取県内にあることを知らなかった。初めて因州和紙に出会ったのは東京駅八重洲口・大丸の最上階各県物産展示の鳥取県の店内だった。3月雪の中、県東部、青谷町の大因州製紙協業組合を訪ねる。(この青谷町と、岡山県境に近い佐治村〔日本有数の天文台で有名〕とが因州和紙の産地。書道半紙では日本の70〜80%の販売量を占めるとか。)
 書道半紙は機械漉きだが、ちぎり絵用には豊富な色数と多彩な染模様の手漉きと機械漉きが用意され、値段も手頃。これなら私たちのちぎり絵画材として適当である。早速この年からここの紙を使うことにした。
 この年の8月、松江北高通信制の卒業生、島根県那賀郡金城町の隅田正三君が、町の文化講座に私の友人・大阪教育大学村田廸雄教授を招聘、合せて私のちぎり絵講習をとの依頼で、金城町波佐まで出かけた。公的機関の主催でちぎり絵講座をひらいたのはこれが最初である。
1969(昭和44)年 51歳  3月末、松江市の岡本さんという女性から電話、ちぎり絵について知りたいと。ちょうど春休暇、早速出かけることにした。当時は小型車スバル360を愛用、島根大学を越えたスーパー前が待合せ場所、これが岡本町子さんとの初対面。案内された公務員宿舎、同じ階段の親しい女性たち数人。後にわがちぎり絵活動の全国的展開の力になってくださったかたたち。岡本さん、粟谷典子さん、原田光代さん、藤田文子さん。このほか忘れてならない沢江典子さん。「婦人の友」の友の会講師(料理)。このかたが糊料CMCを紹介してくださった。この糊がなければ、私たちはずい分出費と手間で苦労したろう。
 この集まりを機に毎月1回の同好会が生まれ、翌年のサークル発足となる。
 米子の地元でもちぎり絵は次第に注目され始めた。作品発表をすすめられ、この年の秋、米子高島屋で個展をひらく。「出雲・因幡手すき和紙によるちぎり絵展」(島根新聞10月12日)。米子地方ではちぎり絵は初めて。安部栄四郎先生、松江北高の大森栄八郎先生もわざわざの来訪。展覧会のあとの講習会は30名ほどの集まり。これが翌年の米子サークル発足へ展開する。
 11月、島根県展。これまで式紙や10号どまりの作品しか制作しなかったので、高島屋展を機会に30号に挑戦。その年の春から育てたヒマワリを8月5、6株壺にさし、初めてベニヤ板に貼りつけた。出雲紙を主体に因州紙をとりこんで。3作つくって2作は知人に引きとってもらい、残りの1作を県展にもちこんだ。
 洋画の部に持参すると、「これ工芸ですね」。工芸の部にもっていくと「これ洋画ですよ」。所属不定のまま工芸の部に並べられた。焼物、染物、塗物、織物など生活用具をみがき上げたものが工芸。それらのうしろ壁に架けられた「ヒマワリ」に、来場者は「オヤ、油絵がこんなところにかけてある?」と怪訝な顔。
 地方の美術展の分類は中央の日展に「右にならえ」で、絵画は日本画、洋画を問わず絵具で描いた平面作品。絵具以外で描いたものは絵画と認めない。私たちはこういう古くさい方針の展覧会への参加をやめ、ちぎり絵だけの展覧会をひらくことにきめ、翌'70(昭和45)年から実行に移した。
1970(昭和45)年 52歳  1月、初めてのテレビ出演。これは鳥取・島根(山陰ブロック)圏内の放送で28日と30日の午前と午後の2回の放送。<今日の話題・ちぎり絵と手すき和紙>が主題。
 4月、安来市のスーパー「はらとく」で展覧会と講習会。
 6月、毎日新聞千葉支局主催の<暮らしの中に生きる紙展>に招待され、ひまわり30号出品。
 11月、第1回松江サークル展(読売新聞が取材、博物館で設営中の写真掲載)。
1971(昭和46)年 53歳  1月、岡山の山陽新聞勤務の、神戸の同期生、藤原巍君より年賀状「君のちぎり絵展こっちでやらないか」。この一言で岡山進出をきめる。
 4月、中野はる先生と二人展を鳥取大丸で。第1回講習会も同時に。同好会発足、赤木等子さんはこのときからおせわになっている。
 8月、岡山市の天満屋で三人展(中野はる、諏訪文子両氏と私)。展覧会のあと講習会。サークルをつくろうとの提案で、賛成者は翌日市役所の駐輪場に集まろうとの呼びかけに、集まったのは私のほかにたった1人---秋山幸子さん。岡山サークルは1人からの発足だったこと銘記したい。
 11月、米子市の文化祭に初参加で第1回のちぎり絵展(市美術館)。

1971(昭和46)年
安部栄四郎、中野はる両先生と。
夏、松江城大手前ひろばにて
1972(昭和47)年 54歳  この年から米子、松江、鳥取、岡山の巡回が始まる。教職との二足のわらじ、出版社(たたら書房)にも協力していたから三足かも。
 冬の中国山脈の山越え、人形峠の下で、岡山からの帰途、夜道でスリップ、あわや谷底へ!! の瞬間、ガードワイヤにひっかかって一命をとりとめ、早春3月の夜10時、四十曲峠で小動物をひっかけ、もって帰って専門の人に見せたら日本狸だという。結局なめしてマフラーに化けたが、今度とれたらと各方面の注文殺到したが、1回きりの皮算用に終った。
1973(昭和48)年 55歳  この年、京都高島屋で初の講習会。集まった人々の熱意で同好会が生まれた(青山公子、西田靖子さん)。
 岡山往復の途次、新見は山本真智子さん、高梁は岡本定子さん、津山は佐藤弘子さんのおせわでつぎつぎ講習会発足、私の勤めの都合で月1回、土・日曜を利用しての山越えだった。新見には三次から佐々木佐佳枝さんが来られ、三次サークル発足のきっかけとなった。
 豊岡市でも坂下史佳子さんのおせわで初の講習会をもった。
1974(昭和49)年 56歳  大阪高島屋友の会教室の開講。朝2時米子発、倉吉経由人形峠越え、中国道はまだ未完成、その頃どこをどう走ったか記憶にございません。9時50分には難波入り。
 7月末広島展と天満屋女性教室の発足。前日松江で作品を積込み、早朝米子の作品をのせ、鳥取で積み、黒尾峠を越え、岡山で積み、山陽道を西に向い、福山で小憩、広島の原田宅についたのは夜10時。当時は三菱のギャラン、クーラーなしの炎天下14時間の走行。それでも元気旺盛。初めての広島展(天満屋)。江田島から篠田伊都さんが参加。
 この年の秋、岡山教室に福山の作田芳子さん来訪。福山開講。
 12月「ちぎり絵通信」創刊号を発行。月刊と銘うったが2号は翌年10月。そのあと3年間休刊。復刊1号は'78(昭53)年11月。
 この年、宮崎開講。郷里が宮崎の平田雅子さんが、当時の住所、福岡から毎月空路帰郷、教室を続け今日に及ぶ。
1975(昭和50)年 57歳  記念すべき年。敗戦後中国引揚以来20余年勤務の教職を辞す。いつまでも二足のわらじでは双方に迷惑。1男2女も大学卒、結婚。後顧の憂いなし。定年まで残り3年あるが、もう無理する必要なし。次の仕事、ちぎり絵に後半生を賭けてみよう。昔なら人生50年、57歳なら墓石か化石だ。幸いに、経済発展と科学の進歩で平均寿命男78、女81歳とか。それまでにまだ20年ある。20年あれば何とかなるだろう。
 大阪高島屋教室の延長として、堺、和歌山の高島屋でも開講。(この2つは長女斎木理愛子が引受ける。)山口を訪ね、高校教諭川島明先生のお世話で講習会、隠岐西郷町の開講(藤田文子さん)、第1回の福山サークル展。
1976(昭和51)年 58歳  1月、NHKテレビ(松江)番組「今日の話題」に出演(荒木、粟谷、林原の3人さんと)。
 11月、「幻の紙」を求めて高知へ。仁淀川畔に訪ねあてた浜田幸雄さんは初対面の私と妻を納屋に案内、何組にも分けて積み上げられた18色の薄葉紙(土佐典具帖)20万枚の前で訥々と語られた---
「3、4年かかってこれだけ漉きましたが、さっぱり売れません。もう紙漉きやめようかと思うとります。今日は天気だから鮎とりですわ。」
 そのとき私は長い間探し求めていた究極の紙に出会ったという感動と、こんな立派な紙が売れない、使い手がないため、漉き人は前途に見切りをつけ仕事をやめかけている---この状況に憤りにも似た感動で浜田さんに直言した。
「この紙、私の方で必ず使い道を見つけます。暫く待ってください。」
 帰宅して使ってみると予想どおり、この色典具を重ね合わせることで、重色、混色、明暗のグラデーションなど自由自在、これまでの厚手色和紙では困難だった豊富な色彩、微妙な色調が自由に作り出せることが判った。これあるかな、これでちぎり絵の一般絵画としての無限の可能性が生まれるのだ。これまでの画材にこの典具帖を加え、全国に普及しよう、そのためにはあらゆる手段、人脈を借りてサークルづくりをすることだ。
 日本橋での講習会を機会に、東京教室を新宿農協会館で開講、サークル発足(岡本町子さん)。
『和紙で描く---ちぎり絵の制作---』の初版を米子・たたら書房で刊行、ちぎり絵について書いた私の初めての単行本(絶版)。
 豊橋サークル発足(斎藤世津子さん)。
1977(昭和52)年 59歳  大阪毎日文化センターの開講(松本幸子さん)。江田島・呉サークル発足(篠田伊都さん)、下松(近藤潤子、印藤佳枝さん)、徳山(原田重子、佐伯光子さん)初講習、山口サークル発足(大枝路さん)、津山サークル発足(佐藤弘子さん)、津山展。
 仙台三越文化教室開講。
 長野サークル発足。
 千葉そごう教室開講。
1978(昭和53)年 60歳  還暦だそうな。何のことはない、新しい仕事を第一歩から築きあげよとの意味だ。よし、あと30年頑張ってみるか。
 年末近く、東京の出版社勤務、千葉在住の宮崎健二、純子夫妻が私の仕事を手伝いたいと帰郷。それまで私たち2人で続けてきた仕事---教材(手本、和紙)の準備とサークルまわりという超過密労働から解放され、これからは気楽にまわれるようになる。自分の作品も制作する余裕が生まれる。こうしてちぎり絵の研究、制作、普及、組織の強化に飛躍的な力が生まれたのはまさにこの年からである。
 11月、「ちぎり絵通信」復刊1号を発刊。巻頭に「紙縁」と題し、京都の寿岳文章先生、民芸運動の先駆者・柳宗悦氏、氏と安部栄四郎先生の出会い、安部先生と中野はる先生のそれぞれの出会いなど詳しくかいた。
 下松・徳山サークル発足、浜田教室(塚本一江さん)発足、宮崎サークル発足と宮崎展。大阪展(初)。
 この年初めて沖縄訪問、敗戦後ハルビンで別れて以来35年ぶりに再会する運天政秀君に迎えられ、島内の戦跡に涙を流し、米軍基地のすさまじさに慨嘆する。運天君の奥さん美智子さん、益井昭子さん、野瀬圭子さんと出会う。上の二人はそれぞれ那覇と徳島でサークル幹事としておせわになっている。この年が機縁で以来数回沖縄を訪ね、一度は石垣島まで遠征した。石垣では京大から派遣のイネの学者池橋宏氏に会う。
 この年静岡開講、サークル発足。幹事代表の内藤政江さん、夫君が鳥取大学勤務時代に鳥取サークルに入会、父君の転勤で郷里静岡に帰られ、ここでサークルを組織、私が毎月訪ねることになった。
 しかしサークル発足の6年目、'84年11月、政江さんの急逝。自宅に立派なアトリエ完成、これからというときに亡くなられた。猫好きで猫の作品を1点頂いたが、30センチの距離で眼がキラリと光るこの表現は、神秘的技法だ。心からご冥福を祈る。
 松山サークル発足について---
 松山在住の重川美守さんがフェリーで海を渡り下松・徳山サークルに見えたのは、光市の印藤佳枝さんのちぎり絵の記事が建築雑誌にのり、それを重川さんが見て、その縁で何回か下松・徳山に通い、松山でも開講をとの要望で私がときどき松山に出かけることになった。しかし重川さんは静岡の内藤さんが亡くなられたのと同じ年に他界され、そのあとは友人高橋まゆみさんが引継ぎ、退職女教師の会の会員によびかけ、立派なサークルに育てられている。
 岐阜高島屋友の会で開講。
1979(昭和54)年 61歳  3月のうすら寒い日、美濃市に落水紙の漉き人を訪ねる。東京で偶然見かけた紙。市原芳三郎、市原団若の両氏は丁重に迎えてくださった。以来20年このお二人を通して美濃紙のお世話になっている。
 落水紙と薄葉むら染紙。こんな紙を使えるしあわせを噛みしめることしばしば。この紙が土佐典具帖とともにちぎり絵を一般絵画と同じ水準に押し上げる条件となった。
 4月、有限会社がんぴ舎設立。社長・宮崎健二、二より一本多い健三は会長(?)。がんぴ舎名の由来は、「がんぴ」は和紙原料として最高品質、安部先生がこの「がんぴ紙」で国の重要無形文化財(人間国宝)になられたことにあやかって、わが社はちぎり絵で最高の教材による指導力を発揮したいという願望の印として社名とした。社員は現在7名。男性3、女性4。
「通信」復刊2号の「典具帖紙の一世紀」の浜田幸雄さんの名文。読みかえしても感慨新た。
 NHK豊橋教室開講(斎藤世津子さん)。
1980(昭和55)年 62歳  広島からフェリーで別府に上り、山なみハイウェイを西走、阿蘇登山、頂上で冷えて体調を崩し、熊本についたら早速医院へ。そのあと熊本つるやデパートの友の会部長中川発氏のご好意でちぎり絵開講がきまる。友の会の広野典子さんにはこのあと十数年おせわになる。(幹事でのち講師を勤め、つるや水俣支店に拡げて頂いたのは脇坂幸子さんと井上シゲ子さん。)
 この年秋九州に再度遠征、フェリーで日向に上陸、鹿児島一泊、朝出発、3号線を北上、久留米、日田を経て夕7時耶馬渓着。十数時間の運転席、着いたときひどい腰痛、幸い宿泊した民宿の女性がマッサージの心得あり、助かった。このときの鹿児島訪問で初めての講習会、サークル発足となった。
 秋田、和歌山、鹿児島の各サークル発足。豊橋展、長野展、仙台三越展、豊岡展、以上4つ初回展。
 岐阜高島屋と名古屋朝日カルチャーセンターの交換講師第1号に推薦され、名古屋に出講する。

1980(昭和55)年
岡山展会場にて
(中野はる先生、次女純子と)
1981(昭和56)年 63歳  札幌毎日ライラック会発足。松山、浜田、朝日カルチャー名古屋、以上3ケ所初回のサークル展。
1982(昭和57)年 64歳  那覇、京都、高知の各サークル発足、大阪毎日文化センター展、静岡展、山口展、京都展(それぞれ第1回展)。桑名開講。
 京都での同好会活動の歴史は古いがサークルとしての発足は今回。
 高知は北村霞代子、山本孝子、大久保紀子の3人さんが月1回苦労して岡山教室に通い、しばらくして直接、私と秋山幸子さんが出講する形式で続けることで、サークル発足となった。
 妻と二人三脚で全国行脚を始めて7年目、これまで札幌や仙台、東京、沖縄などは空路やJRで、その他は専らマイカーを使ったが、この年1月国鉄全線利用のフルムーンパスが発行され、試用してみたらとても便利と判ったので、以来車はやめ、フルムーンと空路で走る(飛ぶ)ことになった。ここにかかげたのは初回と最終回のパスで最終のナンバーは268枚目。このパスは3種(5日、7日、12日)あり、私たちはほとんど12日券を毎月2枚利用して全国を巡回した。12日券は11万2千円、単純計算しても268枚分は3千万円を超える。日本記録らしい。

フルムーンパスを使い始めた1枚目、1982(昭和57)年1月22日から7日間


フルムーンパスの第268枚目、1996(平成8)年5月20日から12日間
1983(昭和58)年 65歳  国際公募展・第9回日仏現代美術展に「ヒロシマ・白い影」初応募の初入選。パリのグランパレに展観、記念の訪欧旅行。パリのレセプションで当時ご健在の荻須画伯におあいできた。
 京都で開催の国際紙会議に参加。会場に隣接する建物内でちぎり絵展。外国からの会議参加者に見てもらい、講習もした。
 横浜朝日カルチャー、新潟三越文化教室開講(田中喜久子さん)、下松・徳山展、高知展ともに初回。福岡市の毎日文化センター開講、盛岡開講。
 10月、安部栄四郎先生長年の夢、記念館竣工式に招待された。サークル会員の方々から沢山の寄付金のご協力ありがとう、代表して先生から感謝状を頂く。